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2019年12月 6日 (金)

『イージー★ライダー』に続くデニス・ホッパー監督第2作『ラストムービー』とにかく狂った映画。素晴らしい。大好きだ。川本三郎、椹木野衣、飴屋法水、中原昌也、五所純子、春日太一 ほか豪華コメント、続々と到着!

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ハリウッドの異端者にして鬼才、デニス・ホッパーの監督2作目『ラストムービー』が、12 月 20 日(金)より新宿シネマカリテほかにて全国順次公開となる。日本では88年の初公開以来、31年ぶりの再上映となる。このたび、本作の公開に寄せて各界の著名人からのコメントが数多く寄せられた。

ハリウッドのスタントマン、カンザスがペルーの山奥で出会ったのは、暴力や死ですらも現実に行う“本物”の映画撮影だった。竹細工で作ったカメラを掲げ、儀式めいた映画作りに熱狂する村人たち。撮影に巻き込まれていくカンザスは、その虚実の境目で、大いなるアメリカが孕む欺瞞に気付いていく――。


インディペンデント映画史上空前の興行収入を叩き出した初監督作『イージー★ライダー』(69)でカンヌ映画祭・新人監督賞受賞、アカデミー賞の脚本賞にもノミネートされ一躍時代の寵児となったデニス・ホッパーが、最終編集権を含む完全なクリエイティヴの自由を得て念願の企画を映画化した渾身の監督第2作目『ラストムービー』。これは、商業映画至上主義のハリウッドが初めて獲得した、真なる芸術映画といえるだろう。だが、この危険な爆発物の如き作品を、ハリウッドは恐れ、映画は短期間での公開後ほぼお蔵入りの状態となり、ホッパーは映画監督としてはその後約10年間の空白期間を迎えることになる。一部に本作を熱狂的に待ち望むものはいたが、未だかつてこの作品が正当な評価にさらされたことはなかった。


2019年――いよいよこの皮膜が破られる。論理的に精巧に作られた映画でもなければ、安心できる娯楽を提供する映画でもない。そんなものを求める観客には「ファック!」とデニス・ホッパーはその中指を突き出すだろう。では『ラストムービー』とは何か? 本作を愛してやまない著名人の方々から届いたコメントは下記の通りである。


いまこれを見れば少しも難解でない。入れ子構造も夢と現実の混合も現代ではもう理解可能なものだ。《十年早すぎた》といってもいい。しかしそれでもなおこの映画は、わけのわからない魔力を持っている。傑作というより怪作というにふさわしい。おそらくこの映画は十年後にも《十年早過ぎた》といわれるだろう。
――川本三郎(映画評論家) ※同作品のビデオ・パッケージ掲載のコメントより抜粋


デニス・ホッパーの狂気じみた存在の奥深さと、数々のアーティストにインスピレーションを与え続けてきた尽きせぬ源泉の秘密を知るには、これを観るしかない。31年前に日本で初公開された時には、僕も劇場に駆けつけた。まさかハリウッドでこんな映画が撮られるとは。「メジャーな奇作」にして映画史上稀に見る特異点。
――椹木野衣(美術批評家)

『狂気の旅路』のニック・エベリング監督は私同様、遅れてきた世代として憧れを隠さない。映画にはそんな想いがダダ漏れで『トゥルー・ロマンス』の芝居をきっかけに魅了されたという同世代の監督に共感する。そして『ラストムービー』の復活。デニス・ホッパーを愛する日本でも1988年の公開以降、VHSリリースのみという呪われた作品ではあるが、今見返すとこの呪いは制作者たちがかけたのではないかと思えるほどに確信的だ。そしてまた虚実を扱う映画は全て本作の影響下にあったのではないかと思えるほどに革命的だった。今回の上映をきっかけにデニス・ホッパーが改めて発見されますように。
――松江哲明(映画監督)

一本の映画が音を立てて崩壊していくさまに、あなたは立ち会ったことがあるだろうか?私にはある。この映画がそれだ。映画史上、他に類を見ない「リアル呪われた映画」が、長い長い時を経て、遂に蘇る。実のところ、この映画は「最後の映画」になり損ねた映画だと思う。だからこそ、永遠に美しいのだ。
――佐々木敦(批評家)

私自身はこの映画は70年代にアメリカから登場したニューシネマの最高峰だと思う。ここには革新性と大胆さ、渦巻く狂気があり、映画として新しいスタイルを確立しているからだ。
――アレックス・コックス(映画監督)

聖と俗とか、現実と幻想とか、狂気と正気とかみんな好き勝手言うけれど、結局どっちも同じじゃねえかと男が微笑む。デニスの笑顔はショーケンに似ている。早逝するはずだったのに生き延びてしまう未来を恥じるような、ちょっぴり悔しそうで照れているような。それを見てるだけで息苦しくなる。今回やっと長年追い求めた答えに出会えると思ったが、結局何も見つからない。こちらもただ曖昧な笑みを浮かべながら、茫然と立ち尽くすしかない。
――佐向大(映画監督・脚本家)


映画というものを知らぬ世界で生きる者は幸せだ。映画は恐ろしい。時間や死すら容易に飛び越える呪わしき魔法を不幸にも我々は知ってしまい、その魅力の虜となりもう後戻りすら出来ない。『ラストムービー』はデニス・ホッパーが、そんな魔の生贄となるべく我々の代表として己の全てを差し出したいびつな記録だ。彼はそれにより心を壊されズタズタにされた。キャリア初頭、朋友ジェームズ・ディーンの死から既に何かを悟ってしまったのかも知れない。つかの間のニューシネマの栄光からいきなり「ラスト」へ疾走した男。この蛮勇を見ずに映画を語るなかれ。
――川瀬陽太(俳優)


とにかく狂った映画。素晴らしい。大好きだ。
今から約25年前、高校時代に観た。なにがなんだか分からなかったが、その分からなさに変な心地よさがあった。しばらくして、あの心地よさの正体が分かった。深酒して酔っぱらい、頭がぐるんぐるんになった時、「あ、これは『ラストムービー』を観た感覚に似てるな」と思った。そして今回の再会。また心地よい悪酔いに浸れた。酒の味を知ってからだから、以前よりも格別な体験ができた。
――春日太一(時代劇・映画史研究家)

デニス・ホッパーとはこんなに繊細なヤツだったのか。遊戯という遊戯がすべてニセものだと充分に承知しながら、先に逝いってしまった友だちの思い出に囚われ、自分の務めを真面目にやりとげようとする。人生とはジョークでも観光旅行でもないはずじゃなかったのか。彼はそう呟いている。観終わって、これは本気の映画だと思った。
――四方田犬彦(映画・比較文学研究家)

二十数年前、エジンバラで購入した一冊のチープな本には、魔術師アラン・ムーア、キャシー・アッカーほかのエッジのきいた短文が集められていた。実験的な作家が並ぶクリエイティブ・ブックの刊行物の宣伝目的のその本の表紙が驚くべきことにデニス・ホッパーなのだった。<凡庸な現代文学を架刑に、復活させるべきはイマジネーション>をうたう本の<ホッパーに捧ぐ>という一見場違いな献辞。西欧文学の過激派にとって、ホッパーは同志とみなされているのだ。この過激なホッパー・イメージに寄与する最大のものがいうまでもなく遠くペルーの地で、映画の架刑と復活をへべれけと覚醒とへべれけとへべれけのあいまに撮りあげた『ラストムービー』ということになる。
――滝本誠(映画評論家)

アメリカの虜でない人間などいない世界で、アメリカの絵葉書ほど描くのが難しい絵画はないと、アメリカの映画人らしく荒野とみれば銃声を鳴らし、アメリカの苦悩人らしく辺境に自己探求の舞台を求め、アメリカの文化人らしく若者とみれば自由に憧れさせて、アメリカの肖像映画を敗れるように破れて見せる『ラストムービー』。アメリカの地を踏むことなくアメリカの旅の土産にわたしは本作を差し出すだろう。アメリカは全体を覆い、アメリカは細部に宿る、と人のいう。
――五所純子(文筆家)

儀式というのは本来生贄が必要であり、ペルーでは本当の生贄を使う。現代の文明社会はそれをやめ、それらしい感じで演じることとなった。『ラストムービー』は、生贄を信じ込んでいる人たちにデニス・ホッパーが感染し作られたものだ。しかし、それは文明社会に拒絶された。この作品のポイントはそこだろう。
――越智道雄(アメリカ研究者・明治大学名誉教授)

この映画は私の人生に決定的な影響を与えた作品だ。20代の頃に私は『ラストムービー』のVHSビデオを本当に何度も繰り返し観続けていた。そして8ミリフィルムのカメラ1つ抱えて東南アジアに旅立った。私にとってデニス・ホッパーは旅をしながら市井の人々と映画を創るというスタイルを教えてくれた先駆者であり、かつては侵略と植民地支配が“暴力と宣教”のセットによって行われ、現代では“経済と娯楽(映画)”によって成されるということを捨て身で教えてくれた偉大なる先輩だった。
――相澤虎之助(映画監督・脚本家)


デニス・ホッパーが写真の仕事で高い評価を受けていることは、あまり知られていないかもしれない。アンディ・ウォーホル、ピーター・フォンダなど1960年代のヒーローたちのポートレイトをまとめた『OUT OF THE SIXTIES』(1986)が有名だが、「壁」の写真だけで構成された『Abstract Reality』(1998)という渋い写真集もある。基本はストレートなスナップ写真なのだが、見ているうちにだんだん妙な気分になってくる。磁場の歪みというか、リアルな現実と二重映しに異界の気配がまぎれ込んでくるのだ。その感触が、まさに『ラストムービー』でも貫かれていることに感動した。三つ子の魂というべきか、いい映像作家の「構え」は最初から決まっているということだろう。
――飯沢耕太郎(写真評論家)

『イージー★ライダー』もそうだったように、ホッパーが求めてるのは「現実」のロケーションとしての「映画」だろう。彼は旅を続ける。トリップからトラベルへ。カンザスからペルーへ。現実(アメリカ)のスタント(代役)としての映画(ハリウッド)を逃れて。しかし、アメリカではないその場所で、目に映ったものは、映画(ハリウッド)のスタント(代役)としての現実(ペルー)だった。そしてその現実(ラストムービー)は、ユニバーサル(世界)に拒絶される...。自分(アメリカ)というカメラには、そのような現実/映画しか写らない。そう知った時、彼は絶望したろうか? これは映画(スタント)の終わり(死体)だろうか? こんなに瑞々しい死体(終わり)があるんだろうか?
――飴屋法水(演劇作家)

あのホッパーを忘れてた...僕だけのせいじゃない。あれだけの存在感の人間が突然亡くなるというのは、忘却といった類いの無情を引き起こしかねない空虚さを、何十年か振りに『ラストムービー』を観て感じた。製作当時でなく、ぜんぜん後の日本公開というせいもあって、その記憶はますます奇妙な感覚になった。過去と記憶が鮮明な画と共にかき混ぜられる体験...ホッパーが取り憑かれた映画というものの神秘体験に久々に触れて、僕の涙は止まらなかった。
――中原昌也(ミュージシャン・小説家)

偉大なるアメリカ映画の歴史に欠けているのは、たった一人のフェデリコ・フェリーニではないか......と漠然だけど考えていた。だけど『ラストムービー』と久々の再会を果たすことで、それも単なる誤解や忘却の産物であったことに気づかされる。この神話的な作品は、アメリカ映画の歴史に穿たれた大いなる「穴」であり、パズルの完成を前に行方不明となったラストピースなのだ。ただしデニス・ホッパーは、大いなる母胎の庇護のもとにある幸福なイタリア人ではなく、薬物塗れのジャンキーにしてラテンアメリカの混沌を彷徨う傷だらけの孤児であるのだが......。『ラストムービー』を見よ! これでアメリカ映画史は完全無欠なものとなる!
――北小路隆志(映画評論家)


‘40・‘50年代のB級西部劇スター、ロッド・キャメロンが、十分な敬意をはらわれて出演しているのがうれしい。この一事からもわかるように〈映画〉はデニス・ホッパーの骨までしみこんだ、生のかたちなのだ。その生の「かたち」を模倣して祭儀化する奇妙な集団行動—— のちの「地獄の黙示録」以上に神話学的な、しびれる混沌......。
――宇田川幸洋(映画評論家)


世界のすべてを平等に見渡すことしかできない悲しみに澄んだデニス・ホッパーの瞳を前にしてわれわれはいったい何ができるというのかもう心打たれすぎて身体バラバラになってこの映画と一緒に時間の果てまで飛んでいきそうだ。ホッパーはそんな時間のそこかしこに遍在していてあの瞳でこちらを見つめている。われわれはこの映画を観に行くのではない見つめられに行くのだ。
――樋口泰人(映画評論家・boid主宰)

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『ラストムービー』

2019年12月20日 より 新宿シネマカリテにて
配給:コピアポア・フィルム
(C)1971 The Hopper Art Trust, All Rights Reserved

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